八月の狂詩曲

昨日、8月9日は75年前に長崎に原爆が投下された日。
8月6日、8月15日とともに日本人が胸に刻まなければならない日だと決して言い過ぎではないかと思います。
担当者は恥ずかしながら広島へはまだ行ったことありませんが、
高校の修学旅行先は長崎だったので原爆資料館を訪れることができたのはプラスに思ってます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/67fe7270835ba2a0db84345493fadde55e6e13e4
その長崎への原爆投下をテーマにしたのが黒澤明監督の晩年の作品が『八月の狂詩曲(ラプソティー)』
自身は徴兵を免除され(いろんな理由があるようですが)、同世代の多くが若き日に戦死したことへの償いの思いからか
『夢』に続いて反戦・反核の思いを最晩年になって叩きつけたような作品と捕えています。
ただ伊崎充則くん(当時)が親戚の日系人に扮したリチャード・ギアを見て「ジョン・ウェインみたいだ」という迷セリフは、
観客を困惑させたと同時に、誰も世界のクロサワが書いた脚本に意見が言えないんだと憐れんだように思いますが、
絶頂期だったギア様のほとんど素のような演技で被爆者のおばあちゃんに心を寄せる姿、
それに原爆を巨大な目で表現したアバンギャルドさ、
クライマックスの暴風雨の中をおばあちゃんが駆けていくシーンに流れる「野ばら」など心に残ったシーンがあり、
好きな作品でもあります。
最も今も忘れられない大きな理由が本作を公開前に東京で観たことでした。
それも「黒澤明と若者たちの対話」というシンポジウム、
『八月の狂詩曲』を上映後に黒澤明監督が登場し、
若者たちと質問に巨匠が自ら応えるというもの。
当時、まだ若者だった担当者は世界のクロサワを目にする機会だとハガキで申し込んだら当選していそいそと駆け付けました。
『八月の狂詩曲』上映が終わり拍手が沸き起こった後の騒然とした空気の中で
黒澤明監督が司会者に呼ばれて登場すると一斉にスタンディングオベーションとなり、
巨匠を目にしてまず感動を覚えたりしましたが、
今思えば隣には晩年の黒澤監督を現場で支え、
『八月の狂詩曲』では第二班の監督をしてた『ゴジラ』の本多猪四郎監督もいたので大変贅沢な機会だったと。
覚えている黒澤監督の発言は二つ。
映画監督志望の学生が海外に留学したいと思ってる、と言うと
「海外に行って何になる?まず日本で学ぶべきだろう」とすかさず返答し、
今思えばあの学生はその後の進路をどうしたのか、
現在海外で活躍してる日本の映画人も多数いるので気になったりしてます。
最も最近、ハリウッドで映画を学びながら長岡でウロチョロしてる自称映画監督もいるので、
あれを見てると黒澤監督の言うことは最もな気にもなりますが。
あとこの映画のメッセージについて問われたら
「メッセージを伝えたければ映画の中にプラカードを掲げてればいいだろう」
と笑いながら言い放ってたのも印象に残っています。
黒澤監督の平和への思いの遺志は大林宣彦監督が受け継いだと言っていいかと思いますが、
その大林監督も亡くなった後に五藤利弘監督が立派に受け継いだのではないかと
先日『おかあさんの被爆ピアノ』を観て思ったりしました。
黒澤監督が亡くなってもう20年以上も経つのかと驚きを覚えますが、
今年「午前十時の映画祭」でまた『七人の侍』をスクリーンで観賞し、
やはり本作を超えるクライマックスのアクションシーンは未だ出てこないと興奮しながら確信、
かつて黒澤監督を仰ぎ見たことを今夏の8月9日に思い出したりしました。
スポンサーサイト
| 未分類 | 21:13 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑