小森はるか監督 『阿賀に生きる』を語る

http://nagaokatsukurukai.blog.fc2.com/blog-entry-3489.html
↑こちらで紹介したシネ・ウインドでの『阿賀に生きる』30周年企画の中で小森はるか監督トークの回を観賞。
聞き手役は『阿賀に生きる』とともに小森監督作品のファンである井上支配人が担当。
平日の昼間ながらも館内は『阿賀に生きる』のファンに加え小森監督のファンも詰め掛けたのかほぼ満席の中で
小森監督が語ったのは大学時代に一度、授業で『阿賀に生きる』を観ていたのに、その時はピンとこなかったものの、
自身が東日本大震災後、ちょうど10年前に陸前高田に映画制作のために移住、
しかしうまく撮影にまで踏み込めなかった時に『阿賀に生きる』を再鑑賞、
そこで描かれた人々の暮らしや映像の美しさに魅せられながら、
水俣病患者でなく人間として見ていることに気づかされ、
自身も陸前高田の人たちを人間でなく被災者と見ていたと。
『阿賀に生きる』を再び観てから意識が撮影に踏み込めた意味で語ってました。
以来、何度も観賞し、自身も映画作家となった中で不思議に思うこととして、
当時はフィルムで撮影しており家屋の中では照明も明るく炊いてた、
日常と呼べない中でなぜ日常の姿、例に挙げてた老夫婦の会話をカメラの前で撮ることができるのかと。
ご存じのように佐藤真監督、小林茂撮影監督などスタッフは3年にもわたって、
阿賀で共同生活をしながら地域の人たちと交流を重ね信頼を深めて撮影に挑んでいるものの、
確かにそれだけで日常が撮れるものなのか、
たいだいカメラがあるだけで普通は構えてしまうものなのに、
『阿賀に生きる』がずっと残っている作品の理由がその謎の一因としてあるのではと、
話を聞きながら思ったりしました。
またちょうどを撮影時の佐藤監督はじめスタッフと同じ30歳くらいの小森監督にとって、
「若い人たちの目線で撮られたことが染みている」と語り、
「自分に重ねると、その時でないと作れなかった映画、
若者たちがもがきながら見続けた結晶に引き付けられる」と最後に締めていましたが、
同世代が撮影した『阿賀に生きる』が今の小森はるか監督の指針としてあるようでした。
現在、新潟に引っ越した中でどのような映像活動を行うのか、改めて楽しみに思いました。
ちなみに担当者は大崩のご主人の下で、ここ数年毎年、田植えと稲刈りを手伝ってますが、
『阿賀に生きる』の冒頭、大雨でぬかるむ田んぼで稲刈りをする老夫妻を再見し、
あのぬかるんだ田んぼで一足移動するだけでどれほど体力を使うか、
実体験として自分はあそこまで刈れる体力などもはやないことを実感してました。
あのシーン、観るたびにいつも声を挙げたくなります。
『阿賀に生きる』公式HP http://kasamafilm.com/aga/news/
スポンサーサイト
| 未分類 | 23:04 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑