武重邦夫映画人のこと

発売中のキネマ旬報に最近亡くなった映画人を偲ぶコラムがあり、
最初にウェス・クレイヴン監督が8月30日に亡くなったことについて触れ、
そうか「エルム街の悪夢」のホラーの巨匠が亡くなったか、
担当者は「スクリーム」三部作を劇場で観てたクチなものの、
「壁の中に誰かがいる」などというドタバカホラー映画も捨てがたいなどと思い返してました。
ただしコラムはキネ旬らしく(?)生真面目に「ミュージックオブハート」を大きく取り上げてました。
ウェス・クレイヴンに続いて武重邦夫という名前が入り一瞬目を疑いました。
7月3日にお亡くなりになられたそうです。
山古志をテーマにした橋本信一監督のドキュメンタリー映画「掘るまいか」「1000年の山古志」をプロデュースされた生粋の“映画人”です。
とはいえ担当者は「第14回長岡アジア映画祭」で「1000年の山古志」を上映する前に一度しかお会いしていません。
この時に橋本監督は長岡に私用があって来ていたので、
FMながおかと長岡新聞の取材をお願いした際にいつも同行していたのが武重プロデューサーでした。
今村昌平監督の助監督として数多の傑作群を支え、
今村監督とともに日本映画学校、現在の日本映画大学を創立し、
活躍する多くの映画人を育て輩出した武重プロデューサーと、
日本映画学校を卒業し、その後教鞭をとっていた橋本監督はいわば師弟関係になるのでしょうが、
橋本監督に目をかける武重プロデューサー、
武重監督を気遣う橋本監督と、担当者の目の前で互いを敬っていた姿が訃報に接し真っ先に思い出されました。
二人は今頃、どんな話をしてるのかと。
FMながおかの佐野さんの番組「ながおか・人の輪・地域の輪」の収録の後に、
同じビルで長岡新聞の取材を橋本監督が受けてる際に、
タバコを口にした武重プロデューサーと雑談していましたが、
今村監督の話や当時作っていたドキュメンタリー映画のことを深く話していました。
正直、当時は武重プロデューサーのことはよく知らなかったのですが、
ただただ滲み出ているカツドウ屋の精神と昔ながらの映画人が醸し出す大きな貫禄にひれ伏す思いがありました。
今思い返せばあれは本当に貴重な雑談でした。
「掘るまいか」は山古志の人たちが中山隧道について映画化を日本映画学校に依頼し、
話を受けた武重プロデューサーが橋本監督に話を振った経緯があったと聞きました。
苦労した「掘るまいか」の撮影ですっかり山古志に魅了された橋本監督は続いて「1000年の山古志」をもちろん武重プロデューサーと企画。
さなかに中越地震が発生し山古志は甚大に被害を受け、
その復興していく姿を「1000年の山古志」で丹念に橋本監督は記録しています。
作品は東日本大震災の被災地でも上映され多くの被災者を励ましたとも聞きましたが、
これからも橋本監督、武重プロデューサーの「掘るまいか」「1000年の山古志」の不屈の山古志精神は、上映のたびに受け継がれていくと思います。
担当者では僭越すぎますが
山古志と映画のかけはしを繋いだ武重邦夫映画人の多くの偉業に敬意を。
シネマネストJAPAN
http://www.cinemanest.com/works.html
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